• 「私でしかない」(1)

    「私でしかない」(1)

    † 最も小さな単位。
     百人の中の一人とみるか、世界人口82億人のうちの一人とみるかで単位は大きく変わってくる。何の意味もない比較としか思えないが、はっきり解ることは、「私は私として生きている」ということである。百人の中であろうと、82億人の中であろうと、私は私でしかないのである。望ましいのは、自覚された自立である。「『私は信じた。それゆえに語った。』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです」2コリ4・13)この節には「私」と「私達」が出ているように、私達クリスチャンは、神の福音である主イエスを信じて「自覚された私」になり、その信じたことを語ることを通して「自立」するのである。使徒パウロは元より、私もそうなのである。最も小さな単位でしかない「私一人」が、有りて有る無限大の神の子供として、82億人の世界に向かって立ち上がるのである。そのように、主なる神は「選び召された」のである。私達は小さな者である。また、小さな神の群れである。しかし、主イエスは言われる「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」ルカ12・32)私に、私達に最も大事なことは「恐れることなく」歩み続ける事である。

    † 変化の中で思う。
     故郷である田舎に住む友人を訪ねた。彼と共に山の林道を車で登った。父の時代には、棚田には黄金の稲がたなびいて、下方には村の様子がのどかに広がっていた。今は、どこにも田も畑もない、ある所はヒノキ林に変わり、その他は荒れ地になっていた。山の木々が伸び放題になり、視界が遮られて、かつての景観はみられない。日本のヒノキやスギは、売っても値打ちがなく、収入源とならないのが現実である。東京や都市には人々が集中する。しかし、地方は著しい過疎化が進んでいる。山を資産とする林業や、農業を復興しないと、山間部に生活する人々は途絶えるに違いない。しかし、新しい価値観で都会から田舎に移住する新しい世代が起こっている。「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている」イザヤ43・19)目に見える現実を超えて、驚くべき可能性は無限にあることは事実である。