「霊的センスと生活」(2)

† どう在るべきなのか?
子供は子供らしく。青年は成年らしく。ということの中に、求められているもの(精神性)がある。社会が要請する「らしさ」人間の歴史から求められる「らしさ」や、家に伝わる格式に求められる「らしさ」があったりする。そういった中で、私達は神との出合いを体験した。聖書の神は、私の造り主であると信じて、神の無い私の存在はあり得ないことがわかった。神の「真理」を知らない私が、自分に依存するなら、絶望を生きることで、まさに「死に至る病」の中を生きる人間でしかなかったのである。神との出合いを通して、神との関係が生命となり「霊的センス」が生まれ、喜ばしく成長するのである。私達クリスチャンは、神の真理(真実)を通して「・・・・この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」ヨハネ11・4)と、このキリストの信仰から、自らの人生に必要な霊的センスを見て学び、味わうのである。御子イエスの信仰の中に流れる、慈しみと愛こそは、言葉に現せない、霊的なセンスの根源であると、私は思っている。

 †独りよがり。

これは「独善」でもある。「自分が良いと考えていることを、他人のことを考慮せずに、押し通そうとすること」これはまさにセンスに欠けたる所業である。人にはありがちなことで、良く目にしたり、耳にしたりしていることである。世の中は人の事より、自分の事を優先する事が得する事につながる。人は、自己意識に捕らわれると、一面的な独りよがりになるのである。自分が好ましいと思っていることに、全てを集約させる事は可能である。しかし、そのために重要な80%を棄て去る様な企ては、ひんしゅくを買うことだ。さて、教会は、人の集まり(交わり)であるが、つねに二つのものが鬩(セメ)ぎ合っている。真理に引き出される事を求め、霊的刷新に歩み出したい人と、自己の世界を堅持し、自己の刷新に関心がない人である。それぞれに霊のセンスがある。御言葉が開く新しい真理に、反応する霊的センサーで、驚きと喜びを持って真理に従う。一方は、自己の現実を肯定する霊的センサーで、自分の信仰理解以外の事には拒否的になる。神の思いよりも、自分の思いが重要だからである。
「霊的センスと生活」(2)