「不動の錨により頼む」(4)
† 人間の知恵と賢さ。
単純明快であると言うことは、愚かさを意味しているようにも取れる。賢さとは、重層的な複雑さにあるように思いこむ。単純である事をさけるのは、本当の賢さなのだろうか? なるほど、余りにも単純明快な小説では、面白くないと言われるだろう。ここでは賢さは重くて複雑である事なのだ。単純明快である事は、思慮に欠けている事を表すのだろうか?「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました」マタイ11・25)これは、すごく面白い言葉である「賢い者や知恵のある者」と「幼子」が対比されている。これは今日でも同じではないか? とすれば、この世で賢くなり、知恵に富んで、いかにも重々しい人が、盲目にもなるのである。神の真理は、幼子のように単純明快に信じてる人に、明らかにされるのである。不動の錨とは、単純明快に信じた人の中に、主なる神が据えられるのである。年季(ネンキ)が積まれた賢さや知恵が深く重くても、それは不動の錨とはならないと言う事を、主は言われているのである。
† 信じる根拠。
使徒達は、聖書を私達に伝え書くときに、常にイメージしていたことがある。それは私達一人一人が、神の御前に立つ時の有様である。私の本当の終末は「死」ではなくて「神の御前で」評価を受ける時である。聖書は、そのため信仰に生きる道を教える。御言葉は、このように「終末(論)」の立場から語りかけているのである。ゆえに教会の使命と、宣教の在り方が確立してくる。所が、悪魔はそれを邪魔をする。私達に「世に在って幸いであること」の信仰を求めさせる。なぜならば、その様な教会と信仰は、この世の事柄と生活に置かれるので「神の国」を築けないからだ。私達の信仰が「神の御前に立つ」終末的であるならば、使徒的な信仰が教会となり、コロナ時代にも、神の国は力強く前進する。不動の錨の力は、悪魔の支配するこの世の誘惑と試練に対して、戦う私達の中に真価を現す。揺るがされることがなく、私達は神の御心を行い、主イエスの復活の福音を喜び、聖霊のお働きを、私達の交わりの中に見るのである。