「らしく生きる」(7)
† キリスト者らしい人。
今から100年も前に、内村鑑三は「余は如何にしてキリスト信徒となりしか」という本を英文で書いた。16才から34才までの体験と精神的成長を綴(ツヅ)たものである。クラーク先生(札幌農学校)の残した「イエスを信じる者の誓約」に、新渡戸稲造達と共に署名した。政府の行政や機関、水産課に勤めたが、渡米し、大学を卒業する。その後、神学校でもしばらく学んだ。今や、この本が現代語に直されて誰でも読めるようになった。光文社「古典新訳」で「ぼくはいかにしてキリスト信徒になったか」である。文語調の日本語のものもある。素直に、現代の私達は「らしいキリスト者」を目の当たりにする。内村鑑三が、キリスト者であるために受けた迫害は、彼が本物であるがためであった。気骨のある彼の信仰は、日露戦争に反対する「戦争廃止論」を発表した。私個人としては、二十代で「ロマ書の研究」上下巻、「求安録」「人生の最大遺物」等を読み、大きな前進を与えられたことだ。内村鑑三の著作全集もあるが、内村鑑三は日本の精神史における、第一人者である事も、知っておくことである。日本の先人クリスチャンから、学ぶ事は誠に「大々」である。
† 悲しみに向かって。
人は生まれながらにして、身に引き受けているものがある。ある人は障害であり、不治の病であり、変えられない環境もそうである。早くして子供や夫を、妻を亡くす事も、心に悲しみを背負って生きることにもなる。今、激しい戦火に見舞われているウクライナの人々は、測り知れない痛みと悲しみを持って、国を離れている。「らしく」とはどう言うことか? 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ロマ12・15)この繋がりで言うならば、当然の怒りをも共有できると思う。理不尽な暴虐を私達は茶の間で見せつけられる。ミサイルや空爆で都市が瓦礫と化してゆく。私達は福音にふさわしく「殺してはならない」 戦争反対と、告白し抗議する。「キリスト者」らしく語り、祈り、行動する。苦しみ、悲しむ人々と一緒になって、神を呼び求めよう。モーセは背後に迫ったエジプトの大軍が、神の御使いによって足止めされている間に、紅海を渡った。後を追ったエジプトの軍勢は海に飲まれた。神は働かれるのだ。