「果たすべき事」(4)

† 自分へのおもねり。 
 「おもねり」とは、へつらうことで「自分におもねる」とは、自分に都合良く振る舞うことである。主イエスは群集には厳しく言われないが、身近な使徒達にはそうではなかった。中でも、身近に選ばれた三人のペテロ、ヤコブ、ヨハネは、より主イエスの、まことを見、御言葉の真意を示されたことは間違いない。要するに、私達が主に近く住み、キリストに従おうとすれば、主の御言葉は真実さを増し、厳しさを伴う様になるということである。主イエスとの距離が遠ければ、御言葉は軽い。しかし、主に近づくと、御言葉の真実が重みを持つ。「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」マタイ19・29) ヨブを思えば、主の真実が理解できるが、人事ではなく自分の事だと、受け取れるのか? 主の眼差しが注いでいるのを感じる。わたしの信仰は、自分に都合の良いことを重視した、おもねりのあるものだ。ペテロは「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」19・27)と、言ったが、本当に「主のみ」に従っていた。私達にへばりつく「おもねり」を剥がして、棄て去る事が、主への真の愛となり、応答(信仰)となる。
 
† 疑わず進み続ける。 
 神はアブラハムに言われた「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」創世22・18)いま、私達はアブラハムの祝福の内にいる。幸い、罪から救われる信仰は与えられた。しかし、大事な最も身近なことは、人生に襲いかかる、様々な心配、恐れや不安の現実をどうするかなのだ。心に決めなければならないことがある。それは「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」ヨハネ14・1)神を疑わない「決意」を持って信じる事。なにごとも、「神は「万事を益となるように働かれる」ロマ8・26)そのような私達は「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」詩4・8)これに勝る生き方はない。そのために神は人となられ、私達のために死なれ、復活された。現実の幸せを疑う余地無し! ハレルヤ!

「果たすべき事」(4)