「果たすべき事」(6)

† 知ることに進む。
 「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す」伝道1・18)人生は、知恵と知識で憂いの多いものになるのか? 知恵者(ソロモン)は、無知や、愚かである方が良い、とは言ってはいない。問題は「知恵」の質である。「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです」マタイ12・42)ソロモンに勝る「知恵」は、主イエスご自身である。「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」ヤコブ3・17)主イエスは、死に至るまでの従順をとおして、私達が神に生かされる、真の知恵と成られた。人間の知恵や知識では、神との和解は生まれない。主の犠牲(十字架)で、私達は神と和解し、神の子供と成れたのである。「・・・・キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」1コリ1・30)主イエスを知る知識こそ、私達の真の幸福を生みだすのである。全力を尽くして、主を知る知識に進もう。

† 限界を知りつつも。
私達は本当の意味で限界を知らない。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」 ヘブル12・4)元旦の寒中水泳に参加できる人は、訓練に耐えた者で、身を切る氷のような冷たさに耐える人だ。私達は、どの様な痛みの中、失望の中、喪失と悲しみの中でも、主への信頼を持ち、感謝と、主への喜びを告白できる信仰を理想とする。先日、気温34度の中、荷物を背負い、坂道の石段を上り下りした一万五千歩は、老体には限界に近かった。しかし、それに勝る喜びがあった。美しい庭園、見事な景観、初めて見るもの、聞く事が、疲れを忘れさせた。この事を通して教えられた事は、私達に最上級の希望と喜び、そして現実に絶えることのない神の愛が注いでいる。これは宗教用語ではなく、生きている現実である。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4・4)この主の喜びに、実存し生きれば、限界に打ち勝つ。

「果たすべき事」(6)