「私の帰すべきこと」(1)
† 自分に帰する間違い。
「イエスは答えられた。『わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。』・・」ヨハネ8・58)主イエス様の生涯の目的は、ご自身の神々しい栄光に尽きるようだが、そうではない。自らのすべての誉れを、父なる神に帰することであった。私達が何か誇れること、自分だけが出来る事、賞賛されることは、自らの優秀性だと思える。しかし、主イエスは言われる「わたしに栄光を与える方は、わたしの父です」と、使徒パウロは言う「誇る者は主にあって誇りなさい」2コリント10・17)と、世間一般で言う人間とは、かつての栄光から遠ざかり、年と共に生きがいと、誇りを失ってゆく、悲哀に満ちる、わびしい人生を迎えるのである。と、周りを見れば、そのような人々で満ちている。しかし、それは「自分に帰する」間違った生き方である。私達は、すべてを(誇りも)神に帰する。「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです」1コリント1・30)自らのもの、全てが、主イエス・キリストの中に輝きわたっている。自らに誇れるものがあるとすれば「自分の弱さを誇ります」2コリント11・30)なのだ。
† 平安の源。
私は罪人であって善人ではない。自分の思い通りに生きられる環境にいれば、それほど罪人だと思わずに、平安に生きるかも知れない。所が、多くの必要を求められるところでは、答えていない、落ち度の多い罪人でしかない。自分が、不平と不満を与えている存在でしかないのである。キリストには赦されても、人には赦されていないのである。要求の本質は、律法に似ていて、赦しも憐れみもない。地上は、キリストに在ってのみ天国である。また、キリストに在って、赦し合える所では、平安に生きられる。しかし、現実に善人と思えない、自分のために、どうするか悩む。そんな時、主なるイエスが「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」 1ペテロ5・7)と、語りかけて下さった。主イエス・キリストの中に「向き直る」ことが出来た。キリストにある幼子として、主に背負われて義人とされている。この揺るぎない平安の中に留まる。これが自ら帰する、平安の源である。