「私の帰すべきこと」(4)
† 枯らさない務め。
今年の夏は、昨年に勝っての酷暑の日々となっている。友人が毎年、自家栽培の茗荷(ミョウガ)を贈ってくださる。今年は高温のためか8月を待たずして、茗荷の茎が枯れてきたという。今までにないとのことだ。相応に雨は降ったのではないか?しかし、それ以上に植物には水分の補給が要るようだ。ベランダや屋内に、植物を育てている人は、常に植物の様子を見ている。欠かしてならないのは、水を注ぎ、命を繋ぐことにある。畑に植えられた草花も同じで、日照りと高温の中では、水が命を繋ぐ。人は、それぞれだが、木花と共に生きることで、学ぶ事が多い。管理するということは、育てることであり、草木の命を枯らさないことである。人に対しても同じ思いが大切である。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩1・3)人間は「魂を生かす水」を飲まなければ育たない。主なる神の言葉が、ふさわしくその魂に届くことである。そのためには、主の血潮を注いで、雑草(罪)を絶やし、栄える原因を与えることだ。
† 本来のものにする。
二日間を要して、譲り受けた古い二台の卓球台の修復をした。昭和時代の代物(シロモノ)だが、メーカー品である。経年の使用で、四辺に欠けがあり、これをエボキシ樹脂で補填し仕上げた。それを塗装で覆って、できるだけ欠けにくくした。本来のものに近づけると言うことだが、材質の劣化は取り戻せない。これで卓球台は、全七台となり、卓球イベントも可能となる。教会員のみならず、求道者も共に研修所(アーク)で、交わりが出来る。教会の務めは、人に対してである。人は本来、永遠の輝きと栄光を持っている。それが隠されて見えなくなっている。そればかりか、この世のかもしだす、人格的な攻撃がある。劣等感、疎外感、孤独感に、追いやられている若者の数は測り知れない。だが教会は、人間の本来を回復する場である。人間が持つべきものを創造する。それが神の愛であり、神の御業で有る。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」アタイ11・28)古いもの(自分)は過ぎ去って、新しい自分になれる。(2コリント5・17)