「増し加えてゆく」(1)
† 大人であること。
子供達を見ていると、日々に成長してゆく様子に驚く。小学一年生の男の子に、卓球のラケットの振り方を教えて、打ち合うと、見事に真似をして、素晴らしい返球をしてきた。一方、癖のついた大人は、頭で解っても、言われたような形に、ラケットを振れない。子供は教えられる事に、反応して成長する。私達大人も、付いてしまった「癖(くせ)」に負けないで、まともになる努力をしたいと思う。大人が子供と違うのは、自分で築き上げた世界の中に、安住していることである。今更、新しい事などに振り回されたくない。今までに充分に努力し、今を築いた。誰にも文句を言われる筋合いはない。その通りである。世の中は「隠居して」好きなことに、生きる事を勧める。大方の人は、その流れの中に居る。聖書の求めは、全く違う「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている」ヨシュア13・1)そして、広大な地域を示し、戦ってイスラエルの占有地にすることを命じられた。神の指導を受ける「魂」は、キリストの兵士であることを喜ぶ。信仰の戦いでは、常に神が勝せて下さるからだ。
† 現実主義(リアリズム)
ある人が言うのには「僕は徹底したリアリスト」なんだ。と、要するに、宗教や信仰に関心がない。と言いたいのである。現代人が、存在の確かさを「感じられる」「触ることが出来る物質」に確かさを置く。実在とは、物質的に感知しうる事実を、基準にして検証する人間(リアリスト)のことだ。しかし、とても原始的なのである、最も実在的であるのは「固形物質」次は「液体」次は「透明な気体」となる。ましてや精神的なものは、現実主義者からは実体感がない事になる。行き着く先は、人間も物質としてのみの終結である。現代物理学では、真の実在は、実体(物質)ではなく、エネルギーである事。実体(物質)は「エネルギー現象」によるものである。見えない生命力、動的なものこそが中心である。心と物、永遠と時間、神と世界、という統一が「実在」なのである「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」 1ヨハネ1・1)私達はこれを体験し、更に増し加えている。