「増し加えてゆく」(2)

† 力から力へ。
 「若者も疲れ:、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40・30-31)若者でなくなった壮年や、高齢者は更に疲れやすく、つまずくことも、倒れ方もひどくなるのであろうか?確かに、それが人間の自然性でもある。しかし、そうではなく「主を待ち望む者は新しく力を得る」ことに中心となる重要性がある。主なる神は、若者だけに力があるようには見られない。全て、主を待ち望む者が「力」を得る。それは、次第に強くなって行くことを約束されている。「彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます」詩84・7)これは全人に対する神の御心である。しかし、私達は艱難や試練に会うと、思い煩い、悲観的な前途を想定し座り込んでしまう。実は、その患難の時にこそ、神の恵みが添えられているのである。主の御名を呼び求め、主を待ち望むならば「力」を得て、私達は強くなる。私達の信仰の証明は、患難の時にこそ、神の恵みが私を強靱(きょうじん)にした。という証明である。信仰の麗しい中身は「力から力へ」進んでいることである。

† 人間の才量。
 待降節(アドベント)の時に、多くの事が思い浮かぶ。一人の人間の才量(知恵と度量)が、救い主の降誕に係わっている。異邦人であるモアブの女ルツである。ルツはユダヤ人ナオミの息子マフロンの嫁であったが、夫は死んで未亡人となった。ルツは、失意のどん底にある姑(しゅうと)のナオミを支えるだけでなく、イスラエルの神に自らを捧げた。モアブに帰って、安逸な生活が出来る事を捨てたのである。ルツの才量は、現在の私達一人一人に求められる。その知恵の豊かさとは、神ご自身を知っていることである。度量とは、知っている事への決断力である。前途に何があろうと、神と共に、ナオミと共に生きる道を最善とした。ユダヤの地でボアズに嫁ぎ、オベデを生んだ。オベデはエッサイをエッサイはダビデ王を、その家系から、主イエス・キリストが生まれる。一人の異邦人の才量が信仰を行動させたゆえに、ルツはキリストの祖先の一人となったのである。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」 1テモテ6・12

「増し加えてゆく」(2)