「増し加えてゆく」(7)
† 増し加える痛快。
痛快とは、たまらなく愉快と言うことで、たまには、そういう体験をしたいものだ。思うに、自分が「痛快」と感じれば良いのではないか?と考える。昨年は、牧師としての務め以外に、数えると50件近い作業があった。電気器具の修理、教会の備品の修復、施設のメンテナンスなどである。廃棄から使用可能にすることは痛快である。多くの故障や問題が解決されるのは痛快である。人に知られなくても、私の痛快である。私はデスクトップPCでの作業をするが、さらに、14年前製造されたノートPCで、礼拝のメッセージを記録する。痛快なのは、時価一万円以下のノートPCなのに、window11pro 64bit それに最新のOS「23H2」が、サクサクと働いてくれている。それを親指シフト・キーボードで打鍵できる稀少なノートPCで、オークションにでも出せば、10万円相当だと見込まれる。まさに痛快この上ない。修理したり、改造したり、さまざまを増し加えれば、価値のないものも現役に充分となる。人間も同じではないか?あきらめないで、主なる神の与える最善を、祈り続ければ、想像も出来ない人間的内容に導かれる。十字架の福音を、自らの痛快な体験として語れるのだ。
† 失う事の困難。
「・・・よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい」2ペテロ3・17)信仰にある自分が「最大の価値ある自己」なのである。真理を知らない人々の価値観に惑わされて、迷い出されると「堅実さを失う」即ち、キリストを見失うのである。強烈なこの世のリアリスト(現実主義者)が、多くの人々引きつけ信者としている。私達には、対抗出来るだけの真理の確信と、福音信仰が求められる。私達はこれまで、何年も信仰の道のりを歩んできた。しかし、惑わされてキリストから離れると、キリストに帰ることが、信仰を取り戻すことが、今まで進んできた以上に難しくなる。そこで、多くの人が仮面信者になる。信仰とは「増し加えて行く」ことで平常なのである。私達は、父の顔を慕い、見上げる子供のように、全てを与えられて、生きる存在であることを宣言する。私は、もう充分に霊的大人だと思う時、後退が始まる。「知っていると思うなら」1コリント8・2)何も知らないままなのである。