「神と人間の志向」(3)
† 志向を変える。
志向を変えることは、思考に関係する。思考を変えられる出会いや出来事が必要だ。願うべきは、神の言葉(聖書)によって日々に思考が新にされる事だ。「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」1コリント2・9)その現実として、今に現れた真理の出来事や、事実に即した報告(証詞)に触れる必要がある。聞く事、見る事で思考は変わらざるを得ない。それによって志向は換わる。この度のJPFカンファレンスで、私の思考していたことが、確証を得たように、志向へと転換した。日本の失われた人々に、届いて行く宣教に定型はない。あれば、日本クリスチャン人口の1%に、低迷しない。向こう50年で現在の信徒の5倍になる宣教の在り方を据えるべきであろう。私達の教会は万人祭司(全て神の役者)の教会である。その宣教の在り方を学び訓練を「口先だけ」でなく「行いと真実をもって」身に染みつかせて行きたい。
† 原型としての志向。
見える形で、神の志向が現わされた。とするならば、神が人となられた事が筆頭に上がる。主イエスはおよそ30歳まで、ナザレという小さな町の大工として人間の生活をされた事だ。それから約3年間の公生涯と言われる、宣教をされたのであった。前期30年間は「神の子」ではなかったのか?「御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」ルカ1・35)東方の博士達も、幼子イエスを救い主として礼拝した。神の子でありながら普通の人間と同じ共有、共存を具体的に生きられたのである。これが、神の志向(御心)だったのだ。私達夫婦が開拓伝道を始めた頃。福音を心の奥に秘めながら、私は職人として地域の人々と共に働き、地域の行事に連なり、多くの方々の世話になり、和気あいあいとして生活した。また、主に祈った「開拓伝道は遠回りです。10年若くして下さい」と、実にそのように見られている。また教会も建った。さて、この主イエスの30年は、現代の宣教の知恵だと思えるのである。