「毎日の不動の錨」(3)
† 御言葉の抑止力。
人の生きるということは、順風満帆のまま終わるわけがない。それほどに身の周りも、世界も激動している。特に信仰に生き、伝道・牧会に身を捧げる人々には厳しい時代になって来ていると思える。世界を襲ったコロナウイルスによるパンデミックのために、キリスト教会は、集い、交わる重要な礼拝で、大きな打撃をうけた。聞くところによると、大教会での来会者が40%もの減少ともなっているとのことである。これは現在を象徴している現象なのである。使徒パウロの宣教も波瀾万丈だった。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」ピリピ4・11)私達にどの様な実績があるにせよ所詮は、人間である。信仰に、宣教に、教会に苦難は付きものである。逆境の時にこそ、神への祈りが起り、神の御手が動かされるのだと信じる。私達の信仰にとって、教会と、その全ての働きにとって、大事なこととは何だろう?普遍の真理は「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」2テモテ4・2)である。神の御心(御言葉)が、私達の全てを安定させる普遍の抑止力なのである。
† 私の自己表現。
私の本文(本質)とは、と問われると、一瞬戸惑う。男であり、キリスト者には違いない。明確にわかることは、他の人には理解されにくい、と言うことである。なぜか?神を抜きにして自分を言い現せないからである。多くの場合「私が」何々をしてきた。あるいは、何々に携わっている。即ち、私が主体として語る事である。しかし、私は主なる神の「客体」に過ぎない。自己紹介をするならば、表面上のことを語るけれども、私の本当は「キリストと共に死んだ者」で、聖霊に生かされている者(客体)である。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」1コリ15・10)パウロに倣えば、私の本質は「神の恵み」以外にはない。多く働こうと、私の様に、少なかろうと、今日の私になったのは、神の恵みによるのである。神の恵みが魂の錨となっていることを、不器用なため現しにくいのである。 唯、主に感謝!