「苦しみの意味」(7)

† 苦しみの背後。
 私達は思いがけない災難(苦しみ)に会うと、なぜなのか、と一層の苦しみと、悩みが増し加わるのである。ヨブは、神を敬い、大きな祝福を受け幸いを得ていたが、突如として全財産を失い、愛する子供達十人も、不慮(フリョ)の事故で失った。ヨブは、サタンに「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれ」ヨブ2・7)妻には「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい」2・9)と、罵られる。神を畏れる私に、この禍いと苦しみが、なにゆえなのか?友人達は、「苦しみの原因」はヨブにある。神は聖く、禍いの原因ではあり得ない。「ヨブよ罪を認めよ」と、因果応報の原理で責め、ヨブの言い分には耳を貸さない。ヨブは「義人に、なぜ苦しみが襲うのか?」という、私達の人生の不可解を提起しているのだ。私達の神は無益に苦しみを与えられない。だが私達には、それが解らないのである。42章に及ぶヨブ記の解決は、ヨブが激白する「私は耳であなたのことを聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で」ヨブ42・5-6)ヨブは、神を見て知り、人生の究極の意味を悟った希少な人物である。
                  

† 同情される神。
 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」ヘブル4・15) 主イエスに従う私達の、最大の理解者は神である。クリスチャンの苦しみは、主イエスの生涯に悉(コトゴト)く現れれている。おもに、戦いにあって生まれる苦しみだ。「純潔」は神の真理の光りである。世に失われても、信仰には力だ。弱い私が戦い得るのは、主が「聖さ」を生きられ、力を与えられるからだ。罪の世に生きる以上、罪の勢力と戦ってこそ信仰は守られる。主イエスもそうされた。私達が主イエスから義の冠を授かるゴールまで、信仰を守り通し、勇敢に戦い抜く。オリンピックの競技者のように、苦しみを伴うのである。苦しみのない勝利はない。神の苦しみを引き受ける者の栄冠は特別に輝く。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」ヨハネ16・33)

「苦しみの意味」(7)