「信仰の検証」(3)
† 日本人の宗教感覚。
この度、島根と鳥取を巡る機会を得た。島根は出雲大社を持ち、鳥取は、日本一の砂丘と漫画家、水木しげる氏がもたらした妖怪達のファンタジー(空想的事象)の世界を持つ。島根の「出雲観光センター」で、いかにも面白いフレーズを目にした。「鳥取には妖怪が大勢いる、島根には神様が大勢いる。鳥取に負けるな島根」旧暦の10月には日本中の神々が、出雲大社に集まるので、11月を神無月と言う訳である。神々の集まる目的は「人々の幸福、生成発展のための神議をする神在祭の斉行」である。この神在祭が訛(ナマ)り、遂に「ぜんざい」となった。甘いぜんざいの語源らしい。出雲の名物、そばには、ぜんざいも膳に載るのはそのゆえんである。さて、日本人は宗教となると、真贋(本当か嘘か)は問題にしない。言い伝えられた神話をそのまま聞いて、信心とし、手を合わせ礼拝する。歴史のある壮大な神社仏閣の前で、日本人は何ら異を感じない。天皇家も係わる出雲大社は、日本のルーツ(起源)のごとく、人々をのみ込む力を持っていると思える。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」1コリント1・18)魂を救うのは福音しかない。
† 千年は一日のごとし。
「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」Ⅱペテロ3・8)これは非常に重要な事実である。使徒は霊感によって「ようであり、・・・・ようです」と、未来ではなく、今のこととして語っている。救い主イエスは、愛の御業を成し終えられ、神の御許にかえられた。そして今、私達に近づいて来て居られる。「生きている人と死んだ人とをさばかれる」2テモテ4・1)ためにである。私達は単なる日本人ではない。天地の創造者で全知全能の神を知った者である。神の完全性である、聖と義と愛をイエス・キリストを通して体験した者である。この様な主なる神の、永遠の御国の民として、特別に選ばれ召された者である。神の永遠の資産を受け継ぐのだ。この偉大な特権を喜ばず、主イエスの十字架の御業に恩義も持たず、聖霊の導きを疎(ウト)んじているなら、主に喜ばれる報いはないと思う。