「信仰の検証」(6)
† 体験された信仰。
契約書は信用できる互いの条件で結ばれる。この場合は互いの実情を調査し、信用に値するかの確認作業をする。信仰は「信用・信頼」と同じで、任せきることである。そのためには、自分自身が確認し、選択する必要がある。人の言うままに信じた信仰は、自己の未確認の不安が渦巻く不安定さに纏(マト)われる。知性において確認出来ることだけでは不十分である。確実な事は、主なる神ご自身の啓示によって、確信を与えられること。これが体験的信仰となる。神を人間の叡智(エイチ)で知る(体験する)事は出来ない。神を求める人には、聖霊を通して啓示して下さるのである。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」1コリント12・3)聖霊こそが神ご自身を啓示される。それだからこそ人間は100%神信頼が出来るのである。それで、復活の主はトマスに言われた「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」ヨハネ20・29)肉眼で主イエスを確認する必要はない。主イエスは、その義務を持たれない。どの様な時代に生きようと、どこに生きようと、神を信じたい。永遠の生命を信じたい。復活を信じたい人には、聖霊なる神が、啓示を通して、私達の魂の最も深くに確証を与える。かくして神を体験できるである。全き信頼を持ち、全てを任せきれるのである。
† 聖霊なる神に思う。
聖霊なる神は、三番目の神では無い。三位一体というように、父なる神、子なる神、聖霊なる神、は同格である。父なる神の御業、御子イエスの御業、神の御言葉、を私達の中に現すため聖霊は働かれる神である。さらに、私達の祈りに答えられる神である。さらに、しるしと不思議を現して下さる神である。さらに言うならば、神の栄光のために、信じる私達の信仰の宣言に答えて「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」ロマ8・29)聖霊は私達の(主にある)聖なる意志を尊重し、その時、その所で、御業を現して下さる。畏怖を持って驚くことは、聖霊なる神は、私達を前に建てて、神でありながら、背後に退いて支えることを喜ばれる神である。