「光りの子供らしく」(2)

† 単純明快なこと。
 光りの子供には、光りの父がいる。同類同質であることを理解できなければならない。でないと「光りの子供らしく」という事の本質を歪めてしまうからである。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」マタイ10・24)この違いは、異質を強調しているのではない。質は同じく共有するが、霊力、能力、聖い品格において弟子は「勝さることが出来ない」と言うことである。私達が、キリストのような者、キリストらしい人、として隣人に見られるとするならば、子供の立ち居振舞いが、親(父なる神)の尊さを見せている事なのである。私達は光りの子供である。光りの父から与えられた希望に「子供らしく」輝かしく生きることで、この世に勝るのである。私達は、負け犬ではない。この世こそ滅びる運命を背負う、敗北者なのである。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」ロマ8・38-39)明快な事実である。

† 御言葉を握りしめる。 
 光りの子供らしく生きた人を、模範にして生きる事は重要である。私達人間は、いつしか自分本位な生き方に帰ってしまうからだ。そのためには「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。・・」ピリピ2・15-16)私達の救いの内容は、神の愛の行い(恵み)である。さらに、神の確実な約束である「いのちのことば」を堅く握ることが、光りの子供らしく隣人の中で「世の光りとして輝く」ことになる。この模範となる人々は、神の愛による恵みを伝えることを優先している人達である。誰でも自分の人生を求めるが、クリスチャン(光りの子供)と言われる人は、伝道している人。証詞をした人を手放さず、祈り、伝道を続けている人である。これが「光りのこども」の力強さとなり、生き生きとした霊的生活が人生の中心となるのである。もし、私が福音を語らず、救いの伝道をしないなら、神の聖霊は私から遠のかれると思う。

「光りの子供らしく」(2)