「傾向性への警戒」(1)

† 自らの傾向を知る。
 高齢者運転免許講習が、先日の午前、K自動車学校で行われた。高齢者の運転には傾向性があり、それが危険を伴うからだ。高齢者は運動神経が衰え、視界も狭く、夜には視力が届かない。脳の衰え(認知症)が致命的症状である。この傾向性が増大すると、法的に免許証は失効となる。運転走行では、人によって、さまざまな忠告(警告)を受ける。重大な事故に繋がるからだ。日頃から、注意深い運転をし、法規を守っておれば、ありがちな傾向性を克服できるのである。このように高齢者の傾向性の問題は、霊的な信仰生活にも同じである。牧師として、数多くの老若男女の皆様と関わり、また新たな方々とも関わりが生まれている。神との関わりと共に、重要と思えるのは、信仰を与えられた自分自身の傾向性との関わりである。人それぞれに、固有の傾向性がある。信仰生活(人生)の、さまざまな節目や、出来事(事件)に直面した時に、その人の傾向性が現れる。衝動的にまず現れる傾向、時間の経過と共に現れてくる傾向、終結に向かって現れてくる傾向が、固有性を現すのである。当然、キリストに近く歩んでいる人は、霊的な質量のある傾向性を現し、模範者として尊敬を受ける。

† 傾向への警告。
 旧約聖書の有用性は、言うまでもなく実際的である。神の選ばれた民への忠告と警告は、今を生きる私達へのものである。使徒達が用いた神の御言葉は、全て旧約聖書である。現代の私達が旧約聖書の戒め(警告)を心に聞かなければ、弱い人間的傾向性を霊的に矯正することは不可能である。私達の信仰の傾向は「身びいきな信仰」といえる。主イエスの偉大な贖いを、自分のために信じるが、神のために努力し神に従う事を疎かにしている。「この国よ。聞け。見よ。わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らのたくらみの実。彼らが、わたしのことばに注意せず、わたしの律法を退けたからだ」エレミヤ6・19)律法は、クリスチャンが退けていいものではない。ユダヤ教的な律法理解を私達はしないが、戒め、警告としての律法は、神の身近に生きるための「光りの道」である。神の怒りが現された十字架は、神の聖さを現す。その聖さは旧約の御言葉(律法)警告に見られるのである。

「傾向性への警戒」(1)