「傾向性への警戒」(4)

† 武士的な気風。
 日本は言うまでもなく欧米化社会である。私達クリスチャンには感謝な体制である。人権が何よりも重んじられることを求める社会であるからだ。一方、社会主義的な平等理念がないので、貧富の差が大きく現れる。私が献身に導かれている頃、某新興宗教の役員をしていた叔父は「東京あたりの牧師は赤貧に甘んじているぞ」と両親を説き伏せた。確かに、神に仕える牧師、伝道師は貧しさに甘んじながら日本人の救いのために励む誠実な方々であった。最も重要な永遠の生命のために、貧しかろうとも、誠実に神に仕えておられた。そのような多くの先人は、豊かな生活以上に、使命に力を得ておられたのである。「武士は食わねど高楊枝」のことわざは、神に生涯を捧げる献身者に通じるものがある。言葉を代えれば「主なる神に養われるために貧しいのである」神に従うエリヤには「幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ」1列王17・6)人は、豊かさが人並みである事を求める傾向があり、そのために生涯を費してしまう。しかし、クリスチャンは偉大な神への信仰の意義と気品を持って、今の時代に生きるべきだと、真摯に思うのである。

† 洗脳的言葉に注意する。
 高齢化社会も相まって、人間の衰えにつけ込む、さまざまなサブリメントの宣伝が後を立たない。確かに若い時よりも、身体の健康数値が下降傾向になるのは事実である。また、病の発症も多くなるのも事実である。そういう傾向性があるにしても、大切な毎日を前向きに向かわせる努力が出来るのがクリスチャンである。なんでもやってみることにしてみよう。なんでも、試してみよう。足腰のために、階段を上り下りしてみよう。血液の循環をよくすることで健康も前進する。20年前に出来たことをやってみよう。私は開拓伝道の時35才から大工の見習を5年続けた。45年を経て、今週4畳半の天井の張り替え工事をやり終えた。まだ、プロ並である。今日の歩数は7016歩、脚立を上り下りし、あと片付けと掃除、其の他で、私なりに、よく動けた証拠である。ヘトヘトになるまで動くことも、時には幸いである。

「傾向性への警戒」(4)