「私でしかない」(2)

† 神の目の中に在る。 
 何を持って自分の存在が在るのか?求められた優秀さにおいてか。世に在って評価を得る事によってか。それ以外にも多くの候補があるに違いない。立場や分野においても、自分たらしめるものがあると思う。しかし、「・・・ほかの人に対して誇れることではない」ガラテヤ6・4)ことは明確である。自分を在(ア)らしめるものを持っていない。ただ、明確に分かっている事がある。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」イザヤ43・4)私が私として在り得る健全な根拠は、神の目の中に、畏れおおくも尊く見られ、愛されている、この事実である。唯一の、かけがえのない私は「神の目の中」に在る。それ以外の根拠は私にはない。と、宣言する。この真実だけが「不動の錨」ヘブル6・19)のように、揺るぎなく私を在らしめるのである。それ以外で、自分を在らしめる事を求めないし、あり得ないのである。これを成される神を誇りたい。そのように生きる事、告白することが、ダビデ゙やパウロと通じると思うのである。

† 運ばれる人生。
 多くの人が、人生とは「切り開いて行く」ことである。と、言う。大変勇敢である。しかし、そのためには、そうするスイッチが入り、エネルギー(力)が供給される必要がある。美しい、力強い言葉だけが先行しては危険なのだ。令和5年度の小中学生の不登校は最多の34万人を数える。最も多い不登校の原因は「学校生活にやる気が出ない」の32・2%である。私も小学5年生の時「少年よ大志をいだけ」の偉大で美しい言葉に躓(ツマヅ)いた。それを生きてゆく力(エネルギー)が自分の中に無いことに気づいたからだ。当然スイッチが入るはずがない。不登校児は私と同じく、スイッチが入らない状態なのである。人間を人間たらしめる言葉は、人の言葉ではなく、人間を創造された神の言葉にある。「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」イザヤ46・4)この約束は、主イエスの十字架の言葉によって現実し、救いを与え、生かす力(エネルギー)を与えるのである。 

 

「私でしかない」(2)