「直視できる霊へ」(7)

† 継続の頓挫。
 義務的な継続は誰もが経験している。学校に行くのも、会社に行くのも義務だからだ。問題は自主的な継続である。自らの意志を通して継続する、様々な努力のことである。例えば、読書による研究であるとしよう。机には、必要な書物が積まれているが、増えることはあっても減ることがない。つまり、読み続ける継続が頓挫しているのである。自分に重要な事、有益な「善」を、疎かにしてしまうのだ。「・・・私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです」ロマ7・18)私はもう歳だからと言って、あきらて良いものか?他にやりたいことが多いので、時間がないと、言うか?しかし、私達は神の子供だ、もっともっと圧倒的な神の恵みと慈しみを求めるべきではないのか?この優先される重要事項を疎かにして善いはずがない。これを認めて、私の生半可を悔い改める以外にない。私が20代時代に、出版と同時に買い求めた21巻の全集(キルケゴール)が、半分も読まれていない。天に召される前に完読して、天にいる彼に謝辞を宣べたいと思っている。私の信仰の根底を堅固にしてくれたからである。

† ありのままを直視せよ。
 人間のありのまま、と言うことでは、「何を持って言うか」に、かかっている。「・・われに来たれ、われ汝を休ません」マタイ11・28)この場合には、罪にまみれ、罪の匂いを放つ「ありのまま」の姿で、私のもとに来なさい。と主イエスは言われる。次は、主を信じた後の、神との宗教的、倫理的な葛藤の「ありのまま」を認めざるを得ない。具体的には、主イエスを信じているのに、聖くない自分、愛のない自分、クリスチャンらしくない自分の「ありのまま」を直視せざるを得ないのである。次は、真の霊的真理体験をした自分の「ありのまま」を直視する恵みである。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8・32)主が言われるように、真理は知識や神学ではなく、神の御霊によって「魂」が体験するものである。「その方は、真理の御霊です」ヨハネ14・17)御霊(聖霊)によって、霊の世界に生きる者に換えられた、自分自身の「ありのまま」を喜ばしく直視出来るのだ。驚くべき神の愛と慈しみの「ありのまま」の中に、私達は生かされる。しかも永遠に。

「直視できる霊へ」(7)