「霊的センスと生活」(1)
† 吸収力。
私達はクリスチャンとして生きてゆく上で、求められる大事なものはセンスである。特に霊的なセンスのことである。センス(sense)とは「物事の感じや味わいを微妙な点まで悟る働き。感覚。また、それが具体的に表現されたもの」と言われる。個人差はあるにしても「センスを磨く」とも言われるように、霊的なセンスも磨くことが出来て、成長させることが出来るものである。昆虫の触角のように、私達も霊的なセンサー(関心と敏感さ)を伸ばしておれば、多くを吸収できるのである。まず、聖書を開いて、アダムとエバから、これを惑わす悪魔から、悟ったことを心に留めつづける。悟りが留まっていれば霊的センスとなる。カインとアベルの行為から、感覚的に学んだ(悟った)事を、忘れないならば、礼拝に対するセンスを持つことになる。このように次々と聖書を通して、自らのセンスとして吸収出来る事は事実である。聞くという礼拝においても、神なる主が語り、望んでおられることを、自ら感じられたなら、感性の豊かさが魂に植えられているのである。センスの豊かさは「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」詩103・2)という、恵みの豊かさを心に留めている事とも饗応している事も事実である。
† 神なる主への関心。
あなたは何に一番の関心がありますか? クリスチャンならば必ず、主イエス様です。とか、主なる神様です。とか、聖書です。とか、キリスト教です。とか答えるのではないだろうか?人のことは神のみぞ知られる。世の常識は、その人の責任における自由という事だ。最上級の人生を考えたことがあるだろうか?私は、主イエスの復活を体験し、主のために死を厭わず、生涯を捧げたキリストの弟子達が最上級の人生を生きた人々だと信じる。主観的にも、客観的にも、この人々が実在したことによって、世界に人生の真実が明らかにされたのである。私は足元にも及ばないクリスチャンだが、最高のセンスは、十二使徒を初めとするキリストの弟子達の持ったセンスが最上級であると確信する。主イエスと父なる神への関心が、私達の人生に最重要ではないのか? その関心の強く、強烈ならばその人に与えられる霊的センスは、最も豊かになるのは必然である