「歩み出すとき」(1)

 † 準備する。
 アドベント(待降節)は、主イエスのお生まれを、待ち望む時を意味している。「・・・・マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2・6-7)この世では、主イエスの誕生のために、場所が準備がされていなかったのである。何ということだろう、無知と無関心は、同じように今日の私達にも当てはまる。この出来事を、知っている私の出来る事は、主イエスのために場所を用意することである。準備して待ち望む尊い時間にしたい。では、どこに場所を準備しようか? 思いつくことは一つしかない、私の宮(心)だ。まさに、飼い葉おけのような質素な心でしかないが、暖かくお迎えしたい。御子の聖さに厭(イト)われないように、御子の笑みに答えられるように、整えてお迎えしたい。以前に聞いたことだが、「ここに主イエスが来られた時、ここは主イエスにふさわしい場所だろうか?」この自問が、自戒を生みだし、恥じない生活をするようになる。と言う事であった。自らを整えて生きて行きたい。

 † 主を呼び求める。
「・・・・この時、人々は主の名を呼び始めた」創世記4・26[口語])明らかに、主の御名を「呼び始めた」 これは、公同の場で堂々と、主の御名を呼ぶことであり、自分を主の御名で呼ぶ、信仰告白であった。使徒パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」 ロマ1・16)と言って、堂々と主の名を呼んだ。同じく、主の復活を知っている私達である。大切なのは、聖霊によって復活の真実から来る、喜びの信仰が現実化されること。使徒による御言葉の教えに従う教会となり、聖霊の力に溢れることである。そして、現代の罪深い世に向かって、私達は兄妹愛の聖い親密さで一つになり、堂々と公同の場で、主イエス・キリストを呼んで公言し、キリスト信仰の力が現される時代になるのである。神の陣営は、神の恵みにより、暗闇を押しのけて行くのである。今こそ、個人主義から、キリストの共同体(兄弟姉妹の一致)に赴いて、主の御名を呼ぶのである。終末的信仰であり、これは私達の教会に興される恵みである。

「歩み出すとき」(1)