「らしく生きる」(3)
† オリジナル。
一口に「パン」といっても最近は独創的なもの、オリジナルなパンが人気である。その人しか作れない独自のパンという事だ。時間を掛けて研究し、苦労をおしまないで完成させたものである。さて、信仰は人のものを真似したり、盗んで自分のものにしょうとしても全く上手く行かない。要するに体験された福音が、オリジナルな信仰だからである。例えば、早々と聖書を読み通し、教理をマスターしたとしても信仰があるという保証ではない。知ったほどの体験が全く欠落しているのだ。霊的な体験は「身についた信仰」であり、表面的なものではない。サウロは復活のイエスを体験し、180度の生き方の転換をしたのである。主イエスがメシヤである事。旧約聖書の神の計画の実現を体験したのだ。使徒パウロの福音は「主と共に十字架に死んで一つにされた事」この世で生きる事は「神の子の信仰に在りて生くるなり」ガラテヤ2・20永井訳)のように「聖霊と一つにされている」という霊的体験を通して語り出しているのである。信仰を頭に置くのではなく、心に置かないと、30年、40年を無体験のままに過ぎてしまうことになる。
† うらやましいこと。
この年の年賀状で心に残った事がある。故郷の同窓生から「もう魚取りは止めた。川にはほとんど魚がいない」とあった。これほど「恨めしい」ことはない。彼と共に川は人生と共にあったものである。田舎に帰る楽しみは、子どもや孫達と川に行って、魚を釣り:、遊ぶことだった。川が川らしくない有様に驚きを隠せない。それほどに、山の中の川が汚染されているという事なのだ。身近な所に流れる木曽川でも同じ事で、今や夏になっても誰も釣りをしている人がいない。15年ほど前のことだが、浅瀬に行くと泥が舞い上がってきた。水質が悪くなったのた。誠に残念至極である。一方、長良川には河原に人々が群れて、川遊びがされて居る。魚も豊富で、いたる所で鮎釣りが出来る。まさに川は、このように生きているはずである。多くの魚を育んでいるはずである。故郷の川のこと、身近にある木曽川の事を思うと、うらやましい限りなのだ。教会だって形骸化すれば命を失う。どちらも人間の勝手が生みだすものである。