喜びの極みとなる(1)

† 極みにいたる。
 生きていると言う事は「途上」を意味する。極み(物事の行きつくところ。極限。限り。)に達するための道程に私達は置かれている。何事にも極致というものがある。剣術の極致ともなれは、相手の心の動きを見通して勝負に勝つ。感覚が研ぎ澄まされた職人芸による作品には極致に至った逸品が多い。もはや真似が出来ないのである。今日も人間国宝といわれる人々は、極みを会得した人々と見て良いのである。確かに世の中には、そういった特別な人々がおられる。万人が出来る事でも、関われることでもないのである。凡人にはどうしょうもない世界があるということを受け入れる。しかしながら、誰にでも共通して与えられている「幸せ・喜び」を極めることは、人間の特権であると思う。喜びの極みとは何か?喜びの極みと「なる」ものは本当に何なのか?生きている自分に即して考える事は大切な事である。やはり、喜びの極みを会得したい、という思いがある。生ける御言葉と聖霊がお働きである中で、どの様な状況にも損なわれない、極みとなる喜びを得る事はあり得るはずだ。理論ではなく、永遠に持ち込める体験として、極みを会得したい。

†  何ものにも損なわれない。 
人間の生活は一瞬にして変えられてしまう。それが、いま見ている戦争である。美しい町並みも、親しんだ景色もミサイルや空爆で壊されてしまっている。生活の場も財産も消失してしまう中で、人間には何が残されるのか?ここでは、生き延びること、即ち生命が最大に優先される。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」 創2・7)人間とは魂を持つ者のことである。ここに重要な手掛かりとなる真理がある。原初に神が形づくり、神が生命の息(霊)を吹きこまれたのである。人間を歴史上に見、国の政治や経済産業に見、環境や人間関係に見るのであれば、世界には大きな格差に生きる個人がいる事になる。また、その格差は人間の不平等をあからさまにする。しかし、地上の不均一を乗り越える道は、人間共通の「原初」にある。人間を創られた創造者の父なる神がおられる。一人一人を神は力と豊かさを持って助け守られるのである。

「喜びの極みとなる」(1)