「喜びの極みとなる」(7)

 主なる神をほめたたえる。
  春になると、宣教師が語ったことを思い出す。「新芽が出てくると、枝に固まっている枯れた葉は、すべて落ちる」いろいろな意味を持つ事実である。救われた人の新しい生命の実体でもある。キリストの復活の生命が実現した新世界秩序でもある。神の神聖は被造物に顕されているのである。創世記の49章にはヤコブの死が、50章には、ヨセフの死が詳細に記録されている。旧約の聖人の求める死は「自分の民に加えられる」ことで、先祖アブラハム、イサクと同じ墓に入る事を強く望んでいる。彼らは地上で神の語りかけを受け、豊かな導きを与えられた。しかし、自らが復活し新しい身体になる信仰は告白していない。所が、私達は驚くべき事実の中に招かれている。復活した主イエスは40日間、弟子達と共に地上におられた。その主イエスのお姿こそ、私達の新しい身体なのである。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1・4)そのために、私達は召され選ばれた。そのゆえに、ひたすらに、ただ、ただ、測り知れない恵みのゆえに、主なる神をほめたたえる。

† 人間の求める究極。
  私達は:どのようにも生きる自由を保証されている。だから私達はキリスト者である事を選んだ。それは、真実で最も理に適った生き方だからである。だから、この福音を恥としないで証詞をすることが最も重要なのである。日本の現代小説家として知られる、川端康成と、三島由紀夫の生き様を探訪するドキュメントを、テレビで観た。川端は平和主義に、三島は、武士道の懐古主義に突き進み、最後は、日本の未来を期して割腹自殺をした。川端はノーベル文学賞を得たが、自分の理想とする美学が、衰えによって追究できなくなり自殺した。これは何を意味するか? 自分の理想を極限まで追究する人間の姿である。この二人が代表するように、いかに優れた能力を持ち、作品を残したにしても、それだけでは人間の完成ではない。と、言うことだ。人間は既にある社会(世界)から生まれたのではなく、無からでもなく、神から創造された事が、全ての究極なのである。この事が根底にない人生は、最後に自分の納め処が無いのである。

「喜びの極みとなる」(7)