「両刃の剣を握る」(3)

†  刃を砥ぐ砥石。
 「研(ト)ぐ」目的は鋭く切れるようにすることである。両刃であっても研がれないと切れない。包丁でさえ刃先が摩耗(マモウ)すれば、切れないことにイライラする。木を切る鋸(ノコギリ)も同じで、扱いを知らない人が無理をして使ったり、刃先を痛めたりすると、真っ直ぐに切れず歪んでしまう。本職の職人は常に手にする道具(鑿(ノミ)、鉋(カンナ)、鋸)などの切れ味を鋭い状態にしている。鋸は専門の研ぎ屋(目立て職人)に委せるのが普通である。それほどに高度な技術を要する。カンナやノミは砥石を持って研ぎ上げる。鋼(ハガネ)の硬さや性質によって、刃先の仕上げ方がある。このことから学べることは、主なる神は、個々の私達を「研いで」鍛えて、建て上げられる「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」ヘブル12・11)人生を神に研がれて鍛えられ、役立つ者にされるのである。その人の信仰は切れ味鋭く、その人は暗闇を切り裂く福音の使者とされる。 

 † 自らが切られる。
 切られる。と言うことは怪我をする、または痛いという事だ。しかし、切られるとは死を意味するのではないか? 私達は聖なる神を信じる。また、神の義(正しさ)を信じる。このことは必然的に、神に似るように求められる「それは『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです」1ペテロ1・16)そうすると、私の内容のふさわしくない部分は「切り取られる」対象である。私の肉の性質がありのままであり、私の内容に悪魔の要塞となる部分があるならば、私は聖でも義でもない。神の愛を、十字架の赦しを隠れ蓑(ミノ)にしているに過ぎない。このことに気づいて覚悟した。自らを晒(サラ)して現そうと。神の聖と義の両刃の剣に切られることを受け入れたのである。それが私のキリスト信仰の内容になった。十字架と復活と聖霊の力の福音が、私とオーバーラップ(重なり合う)自然体が生みだされてきた。国籍を天に持ち、今は地上で福音を喜び、楽しみながら生きる事を赦されている。主なる神の幸いなご計画に感謝し、御名をほめたたえるのである。 

「両刃の剣を握る」(3)