「入れ換える」(1)

† 確実に換える。
 換える、代える、替える、変える。という言い方がある。これから用いるのは「換える」である。換えるは「交換」の意味で使うのが、ほかの「かえる」との違いに挙げられる。「あるものと引き換えにあるものを得る」 「あるものを手放すことによって、別のあるものを手に入れる」さて、新会堂も献堂から17年が経ち空調の経年年数を超える時期になった。今後の故障に部品の調達が出来なくなるのである。この度、最終的な点検と部品交換を行い、3~5年をめどに機器の入れ換えを求められる。ガスの空調機から電気の空調機に換えることになる。小さな一室で冷房を使うと、大きな室外ユニットが稼働し大きな燃費のロスが生まれる。これが今の現状である。このロスを解消する入れ換えの手始めとして、3階の三つの部屋に、個別の電気エアコンを設置する。ガスからの電気への入れ換えである。燃費の軽減を図る第一歩である。なぜか?今のガス空調機を、新しい同じ機器に取り換えると700万円の見積もりである。私達の教会としては、新しい発想による転換で、設置経費も安い電気による空調に切り換わる事になるのである。

† 自らを手放す。
 あるものを手放し、あるものを手に入れる。その、あるものを自分にする。そして自分を手放す。誰に?主なる神にである。何が想像できるか?どの様な「あるもの」を手に入れられるか?真実の「愛」を考えてみるとわかる。愛は、自分の一切を与え尽くす(手放す)ことなのである。主なる神は御子を私達に与え尽くされたのである。だから、これが愛の中の愛(無償の愛)アガペーである。この信仰の知識に従って、私自身を神に手放すことは、主なる神への真実な応答となる。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」ルカ24・27)自分の十字架を負うとは、主なる神の真実に答えて、自らの全てを、主イエスに「手放した」姿である。自分の「あるもの」を手放すとは、一部分を意味する。弟子になれないでいるとすれば、未だ自分は自分として生きて、主なる神に、全てを手放していないと言う事である。主に全てを手放せば、主なる神が、私に換わって、生きて下さるのである。

「入れ換える」(1)