「揺るぎない世界をつくる」(4)
† 捨てたら世界が出来る。
聖書的用語には、罪を離れる。罪を悔い改める。罪を捨て去る。がある。一番強い印象は「罪を捨て去る」で、罪の世界との絶縁の意味を持つ。新しい生活は、罪との絶縁が必須であり、神の国と義は、その場所に成り立つ。さらに、揺るぎない世界のために前進がある。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・」ピリピ3・9)ここでは、新世界(主イエス)を知っているすばらしさのゆえに、一切のことを、ちりあくた(糞土)として、惜しみなく、捨てることが出来るのである。人格的な主イエス・キリストを知っている事。それは、永遠の生命を与えられ、復活の栄光を与えられること、それは永遠に、直接にキリストと交わりを与えられることである。私達に与えられている信仰が、神の愛の御業(主イエス・キリスト)を知る方法(道)である。幾らかでも主イエスを知っているなら、勤勉と熱愛を傾けて、主に近づこう。地上のものが「ちりあくた」となり、捨て去るまで。主イエスは豊かに導かれる。
† 永遠の生命は不可知ではない。
永遠の生命について「明確な確信」があって、クリスチャン生活は成り立つのである。確かに感覚的に実感出来るわけではない。トマスのように、復活されたイエスの脇腹の傷、手にある釘の傷に触れる事はないであろう。主は言われた「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」ヨハネ20・29)不可知論者とは「永遠の生命に関して、私はなにも知っていない」というクリスチャンや指導者のことである。全てが、ばく然のままなのだ。揺るぎない永遠の生命こそ、福音の中核、キリスト信仰の土台で確実な真実なのである。「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」ロマ8・39)私達の永遠の生命は、何ものも、死でさえも、神の愛から引き離せない。キリストの人格的な愛の交わりが、永遠であり、永遠の生命なのである。この確実性は希望となって私達の内に生きている。「死は勝利にのまれた」1コリント15・54)として。