「信のまこと」(3)
† 偽りがない。
「信」とは、偽りがない。信義。という意味を持ち、信仰という内容でもあり、すごく重みがある。人が「信」とするものは、揺るぎないその人の真実となる。それをわかりやすく言う言葉が「イワシの頭も信心から」普段から見れば、イワシの頭は、つまらないものだが、信じる者には、尊くありがたいものとなる。人の信仰を皮肉って言っている言葉でもある。ここでは、人の信じるものが「信」となる事を言い表している。重要なことは、人の「信」とは別に「信」がある事だ。天地創造の神ご自身は、人によらない「信」であり、真実である。私達もキリストを「信(偽りがない)」と信仰しているが、私の信心で神とされたのではない。宇宙の創始者であり、人間を創造された神は、ご意志をお持ちであり、行動されたことで、まことの信義を現された。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」1テモ1・15)神が、罪人である私達のために来られた。これこそが、そのまま受け容れて良い、まことの「信」である。日本人は、対象よりも、人の信心が「信(偽りがない)」となる。この日本人の、信心の構造を解きほぐす力が、福音宣教に必要である。
† 自らが実験台。
「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」使徒17・28)今も、そうなのだが、本当に実感的に神の中に生きているのか?と自らに問うのである。ある意味で実感がなくても「御言葉の言うとおり」なのである。あるいは「主と共にいる」という内容はどうであろう?これについても「インマヌエル(神は私達と共におられる)」マタイ1・23)とある通り、神が共にいて下さるのだ。多くの著名な神の人も、主が遠くにおられるように感じる時があると、告白している。また、主の臨在が濃厚なときには「・・・・手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです」 1サム10・7)という、主との特別な蜜月がある。主の近くに住む者は幸いである。いろいろな時が恵みなのだ。渇いているならば、潤す聖霊が訪れる。私達は、神の中に存在し、幸いな実験台とされている。その事によって、永遠の御国の前味を喜び。主の再臨を楽しみ、待ち望むのだ。