「信のまこと」(4)

† 理性と霊の啓示。
 理性は本来、人間に備わっており、道理によって物事を判断する、知的能力である。私達はよく「神の御心」という言葉を使うことがある。その意味の中に「客観的」という内容が含まれている。使徒達も、神の御心に従おうとした。使徒16章では、アジアに赴くことを、御心と信じていたが、聖霊によって禁じられた(7節)そして、パウロは夢で、霊の啓示を受け、ヨーロッパ(マケドニア)に赴き、宣教を開始した。「信」には、理性的であること、即ち、道理に基づく判断が求められる。しかし、それだけではなく、神の啓示(霊の導き)を求めなくてはならない。当然ながら、物事は私達が主導しているのではなく、主なる神であるからだ。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ロマ8・14)このように、私達は、神の御霊から啓示を受け、導かれる存在なのだ。創世記の後半はヤコブの生涯が書かれている。ヤコブの長い人生を導かれ、啓示を与えられた、神の慈しみが明らかになる。目がかすんで見えないヤコブが、死の前に、ヨセフの息子マナセとエフライムを祝福する。右手を弟のエフライムに左手をマナセに、手を交叉したのである。ヨセフは「父上、そうではありません」と、手を換えようとした。ヤコブは「わが子よ私にはわかっている」と言い、祝福を受ける順位を神の霊によって、預言したのであった。

† 手にするまで。
 「信」にたどり着く、という意味では、仕事上での改善、改革やシステムの見直しなどがある。「信」を見据え、手にするには様々なハードルを越える必要がある。古い環境を、新しい環境にする機会があった。WIN10をWIN11に移行するのに、今までにない幾つかのハードルがあった。今までのWindowバージョンアップへの移行は知識を必要とはしなかった。しかし、この度は、知らないことを知ることに始まり、幾つかをクリヤーして、遂に「信(あるべき形)」にたどり着けた。私に出来る事は、誰にも出来るわけで不思議ではない。WIN11は高速になっているし、マックのような画面構成となり大きく変わっている。今回の挑戦は、忍耐というか、あきらめないことが、ハードルを越える鍵になった。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」 ヘブ10・36)霊的「信」は、日常の具体的な労苦からも学べると知った。

「信のまこと」(4)