「信のまこと」(5)

† 御国の心地で生きる。
 信仰生活の「信(まこと)」とは聖歌467番「悲しみ尽きざるうき世にありても、日々主と歩まば御国の心地(ココチ)す」の歌詞の通りである。私達の唯一無二の特権が、希望に満ちて賛美となる。確かに私達は福音を聞いているが、先代の持っていた信仰の内容と確信が見られなくなって来たように感じている。自らも含めて信仰を掴み直したいのである。まず、私達は主イエスと共に歩む旅人である。今、主イエスの同行者として、私達は、この罪の浮世を、外国として巡礼の旅をしている。私達は、罪人の住み家「この世」に、縛り付けられていたが、主が滅び去る世と罪から、私達を引き離して、救い出された。信仰の「信(まこと)」は、この世に望みを置いて定住を願い「御国」への旅を避けてはならない。「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」ピリピ3・20)主イエスは、私達と同行して下さり、エマオの途上(ルカ24・27)でのように、道々にお語りくださる。私達の心は内に燃えて、地上の何にも優る.平安に満たされるのである。聖歌467番の折り返し「ハレルヤ!罪咎(ツミトガ)けされし我が身は何処(イヅク)にありても御国の心地す」と、これを信仰の「信」として歩みたい。

† 言葉と行い。
 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」1ヨハネ3・18)この使徒の勧めは、父なる神の家族としての在り方を示す。ここには、衣食に事欠く貧しい人々がいる。住む家のない人々がいる。遠くから来ている旅人もいる。一方、豊かな環境に恵まれている私達が置かれている。困窮は個人の責任と思うなら、私達は「失われた者」になる。私達が主イエスを愛するなら、今は、乏しくある兄姉に具体的に、愛を施すことで、キリストに、ふさわしい特権を得るのである。「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」マタイ25・40)主に在る友に施す特権として、主に喜ばれたい。私達の教会は「オファリング」と「バルナバ活動」を通して、神の憐れみを現す仕組みがある。それ以上に、私達が主に在る兄姉を、愛し顧みる特権を忘れず、生きる存在でありたい。

「信のまこと」(5)