「霊的な同化」(1)
† 神の御業による。
同化「assimilation」は、用語として心理学的、言語学的、社会学的、生物学的分野で用いられている。無いのは、霊的な同化という分野である。既存の四つの分野を総合しているようなもの、それが霊的な同化のように思える。霊的とは、自らと神との直接的な関係であり、その関係から生みだされるのが、同化作用である。神の測り知れない愛と御業が、私達に及び神との同化に進ませる。霊的という意味の大きな部分は「神に同化する」事だと心得る。クリスチャンとは「キリストのような人」日本では「耶蘇(ヤソ)」と言われた蔑称(ベッショウ)である。それほどに聖書に即して生きているから言われた。それは、何よりも神の愛と御業が、人をキリストに同化してしまうゆえに、必然として現れる。神の栄光が、人(私達)を通して現されるのである。一方、もしキリストに同化されていないならば、信仰は不自然な現れ方をするしかない。人間が神を採り入れようとする信仰は根本的に誤っている。私達は神に愛され(捕らえられ)神のもの「神の子供」とされ、神の所有となる。自分を神に明け渡して、初めて神と同化する。これが霊的な一体であり、生命の溢れる信仰である。
† なりたい人になる。
自分が、なりたい人を持っているか?あるいは望んでいるか?と言うことは非常に重要である。「イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」マルコ10・51)身体上の問題だけではなく、神にあって何を望んでいるのか?と言う事である。私には憧憬(ショウケイ)する偉大な先人が大勢いる。彼らの信仰と霊性に追いつき同化したいと願っている。今は、まだ到達していなくても、願いがあり、求め続けるならば、神の霊はそのために私達を導く、そうして願わしい自分に到達し、願いと同化する。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」マタイ7・7)神はあなたのために助ける事を喜びとされる。私達の使命は、執り成し祈りつつ、キリストのすばらしさを求める事。そして、神の子供として広げられる可能性を求めることである。その意志がない人は、まことの老人である。