「霊的な同化」(3)
† オーバーラップ。
「二つ以上の要素が重なり合うこと」信仰(信頼)の中に、生きる私達は、目に見えない霊なる神を知る。御言葉は「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」1コリント6・19)ここでは明確に神の所有物なのである。主なる神がオーバーラップして下さっている。この事実が、感覚的に実感がなくても、神との同化がされているのである。私達は、この事実を受け容れ、告白し宣言する事によって、神(聖霊)との同化は強固になる。そして驚くべき聖霊のオーバーラップを知るようになる。聖霊は私達の中に在って、主イエスの御業を現実に現される。端的に言えば、悪霊を追放される。祈りに答えて奇蹟を起こされる。目の前に居る病いの人を癒やされる。明らかに「生けるキリスト」が現実にオーバーラップされるのである。畏れ多いことである。罪を赦した方(神)が、ゆるした者(罪人)を友とされるのである。「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ」ヨハネ15・15)
† 変わらないものこそ。
時代の流行に、同化して行く事は、快感かも知れない。若きころには髪型さえも「慎太郎刈り」「裕次郎刈り」それに白いハンチング(帽子)をかぶった。外側のものは変わり続ける、とどめることは出来ないものである。要するに同化は瞬間的である。それを適度にクリスチャンらしく楽しむのも良い。それと同時に、変わることのない、最も私達を喜びと祝福に導く、まことの自由に同化してゆきたい。パウロはこう言う「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」ピリピ3・11-12)パウロは、国を治める大統領よりも、キリストと同じ様になることの、偉大さを言っているのである。人間の成せる地上のいかなる業(生き方・事業)に勝る、最高峰の業が、キリストご自身であることを、見たのであり、知ったのだ。さらに、キリストを得よ。キリストを知れ。それに勝るものは、世にはないからである。