「私の帰すべきこと」(2)
† 初めが肝心。
初めに失敗があると、後が上手く行かない。それで初めが大事(肝心)なのである。何かに取りかかろうとするなら、その段取り(工程)を正確に定める。人間が人生について考える時期は、大まかには思春期くらいか。日本人は、この頃までに、しっかりと唯物的世界に浸って、思考し世界を見つめている。ここから「初めが肝心」なので、さしあたり勉学が優先する。ミッションスクールでは「初めに、神が天と地を創造した」創1・1)に出会えるが、ほとんどの日本人には縁がない。初めに、とは「原初に」である。原初に、すでに天と地があったのなら、神は、その後の存在でしかない。しかし「原初に神が天と地を創造した」この事実は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11・3)人間として生きるために、肝心なのは、宇宙と世界は、神の創造物であるという認識である。でなければ、お決まりの唯物論の認識で生きるしかない。どれ程の高い知性も魂も、物質同様の結末しかない。常に自らの人生が、神の実在と創造世界に帰結すること。これが肝心だ。
† 先人の労苦。
最も学識を必要とするもの、それは「聖書の解釈」である。神の言葉が命を持ち、力と光を放つのは、盲信のゆえではなく、健全な御言葉の解釈があるからである。私達の聖書(神の言葉)には、二千年にわたる連綿とした研究が続いている。考古学、歴史学、言語学、民俗学、自然科学を、初めとする様々な研究が、神の言葉を成り立たせている。当然、あらゆる攻撃がされてきた。今、聖書と接する私達は最先端の聖書学に裏打ちされた、確かな神の言葉を手にしている。人間は色んなものに信頼を置く、金銭はその筆頭だろう。財産も同じ、今の健康にも信頼を置いている。しかしながら、神の言葉ほど信頼のために尽くされた学問はない。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです」1テモテ4・9)自分は、先人の限りない労苦の恩恵を受けて、疑いなく三位一体の神を信じ、御言葉を信じている。心を騒がせることなく生きる、真実な道である。残された生涯を「御言葉の言うとおり」 に、帰するつもりである。