「私の帰すべきこと」(5)

† 神に喜ばれる事。
 「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです」2コリ5・9)念願とは「一心に願い望むこと」で、ここでは、生きていようと、死んでいようと、ひたすら思い願うこと。と言っている。自分自身の念願が、生き様の本質となって現れる。「帰する」ところが、使徒と同じ念願であるならば、最も神に喜ばれる事に違いない。主に喜ばれることについて聖書は、多くの事について記している。私達の神は愛に満ちておられ、私達のどんな小さな善いことにも、喜んで下さる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11・6)第一に信仰がなくては、喜ばれない。信仰とは「神に近づく者」である。もっと、神に近づくことをしょう。神の近くにいる人は、必ず報われること、念願が実現することを確信しょう。主なる神は、キリストにある小数の民を、この上なく喜ばれている。「なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです」1ヨハネ3・22

† 神の憐れみに帰する。
 63年間の信仰生活の帰するところは何か?私には「神の憐れみ」以外にはない。牧師となって神の役者となったが、それも「神の憐れみ」以外にはない。何かが出来たとするならば、それも「神の憐れみ」以外にはない。自分の存在は「神の憐れみ」によって有る。それ以外にはない。神の憐れみによって、キリストが世に遣わされたように、神の憐れみの選びがあって、私も世に生まれた。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」エペソ1・4)何か別の理由を、自分に帰することができない。私の生涯の体験と学びは、主なる神の「深い憐れみ」を証明し、証詞するためである。これまで与えられた地上的なものも、霊的な祝福も、神の憐れみの所産なのである。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、その憐みは 、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」ルカ1・49-50)マリヤと同じように「我が魂は主を崇め」る。1・46)のみである。

「私の帰すべきこと」(5)