「健全な良心の信仰」(2)

† 神の剪定を受ける。

 「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」ヨハネ15・2)「あなたがたは枝です」5節)とある。一つは、実を結ばない枝は、枝そのものを切り落とされる。一つは、実を結ぶ枝は、もっと実を結ぶように刈り込み(剪定)される。前提条件は、幹であるキリストに繋がっていなければ、どんな枝も投げ捨てられる(6節)この箇所は、実を結ぶ祝福の約束ではあるが、繋がって「結ぶ実の定義」が大事だ。思うに、人が地上で信頼するものは、富であり、金銭であり、自己能力である。キリストが私達に結ばせる実は「神への敬虔な信頼」である。神に全てを委ねきった者(枝)が、神の前に多くの実を結んでいるのである。私達は、そのような実を結んでいると言えるか? 魂に繋がる余分な枝葉を刈り取られないと「神に富む」豊かな実を結ぶことはない。健全な良心は叫ぶ、父なる神よ「私の中に在る不義なる枝を切って下さい」と。実を結ぶ枝は公言する。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」ガラテヤ5・24)ヨブは全てを切り取られたが、以前の財産の7倍の祝福を授けられた。

† 人が喜ぶもの。神が喜ぶもの。

 人が喜び、神も喜ばれるものが最上である。常に問題になることは「神は聖なる義なる方」であるのに対して、人間は罪人(生まれながらにして罪のDNAを持つ)である。人間は原罪という拭いきれない下(もと)に生きている。神の主権の際(きわ)に立って「牧師の想い」があるとすれば、人として喜んだり、感動などしない。真理の鏡に映される自分の不足を、見せられるからである。これは当然のことなのだ。私達人間は「ありのまま」の自分を認められたい。だが、神は、キリストの現された神々しさに等しくなれ、と命じる「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです」Ⅱペテロ1・3)神は、それを与えることを最上の喜びとされ、私達は、主イエスの内容を信仰により獲得できることを最上の喜びとする。ハレルヤ!

「健全な良心の信仰」(2)