「健全な良心の信仰」(5)
† 人間の必然性を知る。
私達は同じ社会の中に生き、経済大国日本の中で活動している。極度の差別のない幸いな環境にあると言えるだろう。さて私達人間にも共通した真実がある。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」伝道者の書12・7)人間だけが与えられている霊(霊魂)は「これを下さった神」によるものである。「ちり(土)」によって造られた私達の身体は、元の地に帰る。と言う真実である。人間は明らかに精神(魂)として人生を生きる。意味ある生き方によって、個性ある自己という魂を磨くのである。私達は魂(自己)として神の御許に帰るが、地上の生活で人間(魂)の尊厳性に生きないで、虚栄や欲望に生きた人(魂)は、神の秤の上で目方の足りないことが明らかになる。「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」2コリ4・4)だからこそ、私達日本人に重要な事は「霊はこれを下さった神に帰る」という、理解できる真理を福音宣教の初め(土台)にしたい。理解が健全ならば良心は、神の言葉を聞いて動き出すであろう。説得力の有効な一つであると思う。
† 年と共に若くなる。
長生きすることが当たり前となっている。重要な事は、長生きにあるのではなく「健康である」事にある。体内年齢が若いことなのだ。信仰も同じで、信仰年数が長くなって、霊的な若さを失っては残念である。そのためには、自分に依り頼むものが何一つないように、主イエスの血潮と恵みに依り頼むことである。常に自己を「罪人の頭」として告白することだ。信仰を長く続けている人で、罪を告白できないまま義人ぶると、霊的老人へと下降する。心の中に隠れていて、告白されない罪こそが、霊的病いを負っているだ。信仰歴が長いことの恵みは、罪から解放された喜びが増大すること。主イエスの誠実な祝福への感謝である。長い信仰生活は古びることなく、益々キリストの香りを放つのである。「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない」1コリ8・2)私達は、これまでの恵みに感謝しつつ、教えられる事を喜び、知る事を喜こぶ若者として、前進して行こう。