「増し加えてゆく」(3)

† 驚きが増し加わる。
 慣れ親しむと、当たり前に成り、特別な感動がなくなる。最高が最高なのだと、驚きもしなくなる。同じように私達も、神の恵みに回帰していないと驚きがなくなる。回帰とは、いつも、初心に返る事。主なる神の恵みと、憐れみに導かれ、主への感謝に溢れることである。感動は感謝を生みだす。感動がない理由は明確であって、「へりくだった心」を失っているからである。主なる神が驚きで在られるのを、知ることが私達の特権である。でなければ、私達は神を知らないままになる。私達は主なる神に驚かされ、主イエスに驚かされ、聖霊に驚かされて、そのつどに成長する。例えば、「特定の御言葉」に驚き感動したならば、私達には、それ以外の御言葉も「特定の御言葉」として存在しているのである。神を思い巡らしている人は、新しい発見をして、その真理に驚く。主なる神は現代の私達にも、日々に驚きの神である。私達は真理の深さ、高さ、広さ、に驚きながら、人間としての幸いを増し加えて行く。そうでなければ、信仰はつまらないものになる。「真理は驚きである」真理の驚きを味わう者となれ。そうでないと、モノトーン(単調・単色)の毎日を味わう生活となる。

† 宝の倉の中身。
 「そこで、イエスは言われた「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです」マタイ13・52)学者とは、私達のことである。私達は旧約聖書も新約聖書も、同時に理解出来るからだ。天の御国の弟子とは、メシヤ(救い主)イエスを受け容れた私達のことで、新しい物(宝)とは、キリストを知る掲示(新約聖書)。古い物(宝)とは旧約聖書(律法・預言)の事。主イエスは旧約聖書の権威と妥当性を支持された。天の御国を知らない、教師(学者)は、律法における神の真の目的を理解出来ず、盲目であり、現実の宝とすることができない。しかし、主イエスの教えを理解する者は、旧約聖書の教えも、信仰と、この世で生きるための、実践的な指針とする。新約・旧訳の御言葉の宝の倉から、古い宝、新しい宝を取り出して、私達は神の御国の真理を、30倍、60倍、100倍にまで、豊かに増し加えることが出来るのである。主イエスの恵みが、私達を弟子とし、御国の学者にするのである。

「増し加えてゆく」(3)