「増し加えてゆく」(5)

† 信じるための無責任。
 誤解を生む「無責任」と言う言葉の重要性を考えたい。私達は主イエスを愛し信じているが、一人の律法学者のようである。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」マタイ819)直観的な、素晴らしい応答である。しかし、主イエスは言われる「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」20節)学者の想定した世界は崩れ、足は止まってしまった。・・・ガリラヤの漁師達は、網を捨て、船を置いて主イエスに従った。彼らにも生活があり、家族があった。しかし、単純率直に全てを捨てて、主イエスに従った。信じた結果である。現代の社会に生きる私達も、主イエスを信じている。主は言われる「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」ルカ14・27)永遠の生命と、復活の身体で新しい御国に生きるためには「十字架を負う」必要が生まれた。私達は、日本の文化の価値観に従い、社会の要請の下で培った、自らの面識や立場に生きてきた。しかし、それらを十字架に磔(はりつけ)にすることである。使徒パウロのように「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」ピリピ3・8)今までの「生き方」に、無責任になる事なくして、主イエスに従う弟子としては、遠いと思う。

† 増し加える神。
 聖書を学ぶ誰もが発見することは、主なる神は、気前が良いと言うことである。「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした」詩9・10)昨日、ご高齢に成られた医師を訪れ、年賀の挨拶をした。この方の言われるのに「90才を生きる事は苦痛です」(虚しい)と聞こえた。聖書も持っていると聞いていたので、証詞の本をお渡しした。高齢に伴う、虚しさや鬱(うつ)的気分は、必ずあるものではなかろうか?しかし、このような人間の衰退を補う最高の方法は「神を求める者には報いてくださる方である」ヘブル11・6)を信じて、主なる神の恵みを、その豊かな生命を増し加えられることである。私もその実験台に立たせられている。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」ルカ11・13) まことに、ハレルヤである。

「増し加えてゆく」(5)