「神と人間の志向」(2)

† 信仰の初め。
 私ごとであるが19歳から信仰生活が始まった。私が志向していた信仰とは、世の中に通用する科学的である事。同時に社会に通用するものであること。自分の感性と置かれている状況を克服する内容を福音に求めていた。自分が生きて行く上で、自分が納得することが重要であった。どんなに素晴らしい物語も、それだけでは強い支えや、力にはならないと感じたからだ。人間の現実から、かけ離れたものは、私の志向には虚しかったのである。非科学的なものが聖書であったり、教会であったり、信仰であるなら、この世の現実から引き離された架空の世界に、引き入れられることだと思えたのである。私の志向では、信仰は精神的に、ということだけに留まる事は本物ではないと、思えたのである。信仰生活8年後に献身して神学校に行ったが、まだその志向は続いていた。現実の人間には、明確な答としての根拠(科学的で実存可能)が必要である事。として全能の神に対峙(タイジ)し、キリスト教と聖書を学んでいた。私の福音は、このような初期からのテーゼ(命題)が土台となって、発展し聖霊に導かれてきた。この私の志向は、神の実態的恵みに 導かれ、主イエスの十字架と復活の力によって、遂に神の志向に換えられる事になったのである。

† 神の志向は現実。
 神を神とする、とは、私自らのこと全てを、任せるということだ。神の志向に任せるために3本の支柱(御言葉)を立てた。①「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩37・5)「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩55・22)「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」箴言3・5-6)ゼロからの開拓自給伝道の原点である。主なる神は、真実に御言葉を信頼するものを見捨てず、ご自身の栄光に繋げられた。それが可児福音教会である。誰にもできる事は「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4・7)神は偉大で真実である。 

「神と人間の志向」(2)