「神と人間の志向」(7)

† 「生きるべきか死すべきか」
 シェークスピア四大悲劇の一つ「ハムレット」の有名なセリフである。父親を殺されたハムレットは、仇討ちのために勇敢に戦って「死ぬべき」か、神に全てを委ねて「生きる」べきか、の葛藤(カットウ)に置かれるのである。神を信じる者に「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」ロマ12・19)神に従うか?人間の自由な意志を選ぶのか?という「志向」が求められているのだ。かつての日本では仇討ちは赦された義務とみなされた。しかし今、家族を無謀な殺人犯に殺された人々。海外に拉致され引き離された人々は、心の極限の選択に立たせられる。私達は、今を生きるのにどうする?と問われる。ハムレットと同じ立場に立って「神に従って」生きるのか?それとも自分の「自由意志」を重んじて生きるのか?神の前に立つと言う事は、ごまかしの利かない自分があからさまになることである。よく思考すべきであり、そして選択に至り「志向」となる。多くのクリスチャンは鏡の前には立つが、神の前には立たない。神よりも、自分を優先する曖昧さを生きてしまうのだ。十字架に死んだ者である私は「神の御心を選び生きる」にあるので「復讐を神に任せる」ことにある。

†  信じる事が志向である
 志向とは、その人の偽りのない内容(魂の中身)である。建前ではなく「本音」のことである。私達は頭が先行する。知性的に理解し納得して活用する。キリストを信じなくても理性が善悪を識別するし、問題なく生きて行けるのである。昔の武士は君主のために命を捧げた。それ以外に「生きる」という使命はなかった。信仰(信頼)とは、犠牲を伴う信頼である。「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」マタイ19・29)都合の良い信頼は「私」を中心にしたものである。しかし、まことの信頼は自分に犠牲を強いられても「相手を信ずる」のが本物である。本音の「志向」は、まことの信頼(信じる信仰)になければ、それは「建前」(表面上の理由や主張)に過ぎないのである。キリスト教は信頼の宗教と言われるのは「嘘も方便」という都合の良い建前が無いからである。私達は人間主導の時代に生きているが、神の求める信仰は、何ら変わることなく、神への信頼を求めている。私達は、自分に都合の良い部分で神を信じるのではなく、主なる神が求められる犠牲を捧げ、神を信頼する、本物の志向された信仰を持ちたいと思う。

「神と人間の志向」(7)