「毎日の不動の錨」(1)

† 初めに頼るべき力。
 初めに、まずは自分自身が、力に満ちて立ち上がることが重要である。そのためには、ダビデのように「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです」詩18・2)と、頼りたい。私達は安定した環境の中で守られ、自分の立場が保証されている。これまでの努力が、自分の実力となっている。この自覚的「力」は大切であるが、それだけでは「世の人」にすぎない。私達の原動力は、神御自身なのである。それで、ダビデは自分自身の力の全てを、主なる神に置いているのである。特に覚えるべきは、主なる神は「堅固に守る」岩であり、城であり、やぐらである。私達クリスチャンの力の本質は、自らの内にはない。主なる神に力を着せられ(覆われ)て、力ある者となるのが私達である。これは非常に優れた生き方となる。私達の培ってきた実力は損なわれることない。さらに、主に依り頼む者には、盤石(バンジャク)の主なる神の守りの力が覆うのである。私達の「毎日」の始まりを、喜ばしく、神の子供らしく、父なる神を「わが神、我が救い」とし「依り頼む岩、我が盾」とするのである。私達が健全であるためにも「わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します」詩18・1)と、喜ばしく信仰を宣言し続けようではないか。

†  確実であること。
 「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです」 ヘブル6・19)誰でも生きてゆく途上には、魂が打ち砕かれてしまう危機の時がある。絶望に見舞われる危機には、離別、裏切り、差別、左遷、偏見、見捨てられること、それに事故、天災、病、不遇な事件など、いたたまれない状況に魂は追い詰められる。そのような中で「魂の安定」を保てるか、否かが、私達を決定するのである。その「望み」とは、主イエスの十字架と死人の中から甦られた事実である。使徒パウロは、全人類の、いかなる魂の状況にある人にも「絶対的な揺るぎない希望」なのだと宣べ伝えた。荒れ狂う人生にも「魂は沈没しない」 なぜなら、主イエスは「望み」として死から甦り、魂を支えてくださるからだ。そればかりではない「幕の内側」に入る。それは、主イエスが私達の先駆けとして入られた「天の幕屋(御国)」のことである。嵐の中に置かれている魂であっても、主イエスは「錨」となって、その人生を安定させ、さらに保証された御国の輝きを私達に体験させて下さるのである。地上の生活が、今どのようであろうとも、主なる神が私達にもたらされる祝福は確実なのである。

「毎日の不動の錨」(1)