「毎日の不動の錨」(2)
† 自分を当てにしない。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」 箴言3・5)これは自分にとって重要な事柄である。私は私のために自分のこれまでの知恵や知識で生きていきたいと思う。しかし、それは不十分である。と、自分に言い聞かせている。人生のこと、信仰のこと、教会のことについては、大方をわかりきっている。しかし、それは本物ではない。自分の悟りに頼るな。と言うことであり、主に依り頼むことなのである。なお、心を尽くすということは、どう言うことか?聖書と歴史を省みよと言う事である。神の叡智は聖書に啓示され、信仰の歴史の中に現された。そのようにして、主なる神が多岐にわたって示しておられる真実があるからである。そのために熟慮を求められる。自分が優柔不断のように思える。わかりきっていることでさえ、主に尋ねてみる。そのようして、「霊的にぶれない」生き方をして来たのではないかと思う。この生き方は、自分の利便性に焦点を合わるものではない。神の御心と主イエスの生き様に倣うことである。犠牲や労力を避ける賢さを探るものでもない。ただ、言えることは「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ロマ8・14)この御言葉を生きることであり、結果的に祝福であったのだ。そのためにも、不動の錨として、魂に留め続けている御言葉である。
† 御言葉の現実化。
神学校でお世話になった院長先生が、召されたことを最近知った。先生の遺稿「実存ということ」が機関誌に載った。浄土真宗の信者、禅宗の僧侶、実存主義哲学者、それぞれの実存(実際に存在する。実在)を書かれていた。それぞれの体験が、その人の実存として、解釈がされている。クリスチャンの実存が最後に宣べられている。「御子を信じる者は永遠の生命を持つ、ことに要約されるが、上の方から信ぜよという言葉が聞こえてくる。すがりつく相手は、イエス・キリストである。信じる事は、水の洗礼を受けることで、口だけの信仰ではなく、全身参加の信仰である」私の理解では、実存するということは「信じる(選択)」が経験(神の生命・救い)となり、実際となるのである。「私はキリストとともに十字架につけられました」ガラテヤ2・20)は、パウロの真の実存(実際)なのである。私も霊的不動の錨として十字架の死に実存している。