「毎日の不動の錨」(5)

† 常に不十分であること。
 ある人にとって、不十分と言われることは、気分を害する言葉である。しかし、日々に不十分でしかないことを痛感している。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」マタイ10・24)と、主イエスが言われたことに、感謝する。これが「あなたがたは、行いにおいて、私と同等にならなければならない」と言われたならば、キリスト教会は悲劇の場と化すこと間違いない。アスリートの世界では、教えるコーチを、はるかに凌いで躍進する人も多い。しかし、2000年の歴史を振り返っても、キリストの弟子は師に勝って現れたことがない。それだからこそ、私達は主イエスを慕い、愛し、服従する事が出来るのである。しかしながら、主は「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」ヨハネ14・12)と言って、キリストの行われた、しるしと不思議の業を、 行えるようにして下さり、さらに、大きなわざとなるように、行わせて下さるのである。不十分極まりない者に対する、主の信頼に、また惜しみなく、ご自身の霊を注がれることに、聖なる神への畏怖と、奥深い感動に包まれるのである。「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人のことはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」詩8・4)

† 幼子の霊で生きる。
 人は立派な成人になりたい。世に、周りの人々に認められたいのである。とても良いことで、悪いことではない。どの分野でも「立派に出来る成人」を求められる。それと同時に、神に認められる成人であることが必要である。この成人は「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです」1ペテロ2・19)とあるような成人である。今様のパワハラにも反応的にならず善を行い続けられる成人である。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ」ロマ12・20)このような人が霊的成人である。大きな影響力を秘める成人である。宮沢賢治ではないが「私はそのような人になりたい」思うに、一般社会的な法律的成人ではなく、主イエスの愛と品性の乳(御言葉)を飲みつづけている幼子としての、キリストの成人であることだと思う。

「毎日の不動の錨」(5)