「毎日の不動の錨」(7)

† 私への真実。
 人生の尊さの中に、誰にも明かせられない体験がある。私だけに与えられた真心であり、愛である。それは生涯の宝であり続ける。神は美しさを創造された。そして誰にでも、汚れのない美しい真実が与えられていると思う。マイク・ビックル(元ビンヤード教会牧師)はアメリカで出版されている「雅歌」の注解書全て購入して学んだ。神の真実な親密な愛について知るためだった。彼はIHOP(インターナショナル・ハウス・オブ・プレイヤー)を設立し、全世界的な祈りの活動をおこした。神との親密な交わりは「神と私」の親密さである。神がその人と親密な交わりの中で秘義(ヒギ)的な、啓示をお与えになるのである。私への神の親密な愛の振る舞いは、永久の宝である。やはり軽々しく人には明かせられない秘め事である。使徒パウロは一度だけ明かした「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました」2コリ12・2)聖なる神が、主イエスのゆえに、寸足らずの私にも親密に近付かれた。それは、誰にでもそうされるはずだ。それを、限りなく尊い毎日の錨とせよ。

†  みことばを宣べ伝えよ。
 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」2テモテ4・2)信仰が生きており、キリストに成長する人の特質は、人の救いのために生活している人だ。「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」 ヤコブ5・20)私の同窓生が次々と世を去っている。その中で、付き会ってくれる5人の友人に定期的な伝道をしている。おもに文書伝道であるが、永遠の生命を得てほしいのである。若いときのように行動的でなくても、クリスチャンとしての「要(カナメ)」は、御言葉を宣べ伝える業である。これを、続ける事が「神に生きること」である。これを怠る信仰は「死海」となり、信仰は宗教的な習慣に堕(ダ)する。教会に集う者ならば、手を差し延べられる、未信者の方、入信間もない方、信仰歴の浅い方が居られる。自らこの方々に仕えよ。この事が、あなたを生かす錨となる。

「毎日の不動の錨」(7)