「苦しみの意味」(4)
† 意味のための苦しみ。
世界の多くの人々が、大切な意味のために、苦しみを引受けて戦っている。ウクライナの人々は、侵略者から自分達の自由と民主主義を守るために、苦しみながら、死を隣りにして戦っている。ミャンマーの人々は独裁者の横暴な破壊に対して、家を焼かれ、田畑を失っても、屈服しないで、苦しみながらも戦っている。このように多くの人々が「意味のために苦しみ」戦っているのである。神は聖書において「意味のための苦しみ」を、書き記される。創世記27章から50章には、ヨセフの歴史が書かれている。兄弟に疎(ウト)まれ、奴隷として売られる、その境遇は最悪の苦しみとの戦いである。全てを奪い去られた人生であるが「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり」創39・2)とある。不条理な苦しみにある人々への励ましである。「意味のために苦しみ」を戦う年月は長いかもしれないが、決して無に帰することはない。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした」創50・20)個人的な不遇や苦しみは、神にあっては「多くの人を生かす」ための「意味のための苦しみ」となるのである。主イエスに在る者は、大切な意味を生きているのである。
† 苦しみに勝るゆとり。
ダビデが実感した出来事が、詩篇4篇に書かれている。ダビデ以外の、多く者は「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」6節)と、言いながら「むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求める」 2節)即ち、神の実態を知らず、畏れもせず、学んだ真理にとどまる事をしない。要するに、神を信頼するという実験をしない人々である。大まかに、苦しみは二つに分かれる。一つは、神を恐れ戦(オノノ)き「罪を犯さず」「義のいけにえを捧げ、主に依り頼む」苦しみである。もう一つの苦しみは「神の助けを知らず」「神の特別な扱い」を受けない。神を知らないために、身に苦しみを引き受けるタイプである。私達は神を信頼し実験して「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」と体験する事である。主は喜びで心を満たされる。日々平安の中で眠り「主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」と、毎日を生きられるのだ。それが、苦しみに勝るゆとりとなるのである。