「苦しみの意味」(5)

† 産みの苦しみ。
 「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」ガラテヤ4・19)主なる神も同じように、私達を見ておられるのではなかろうか?私達は「キリストが形づくられる」とは、どう言うことなのか理解しているかが、初めに問われる。教会に属していることは重要であるが、さらに、生きる内容が「キリストに似ている」と言うことである。パウロは見た、教会(兄姉)が、キリストの生命に、生かされていないという実態であった。現代は洗煉された時代かも知れないが、人間はそれだけキリストから引き離されている。「生きることはキリスト」ピリピ1・21)と、自ずから宣言の出来る信徒は、多くはない。突き詰めれば、御霊の生命は、十字架体験と理解が生命となる。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」ガラテヤ5・24) 福音(十字架)は現実の神の怒りと、神の愛の峻厳な(シュンゲン)な事実を現わす。神は、痛み、苦しみながら御子イエスに怒りを下し、見捨てた。それで、私達の罪を葬られた。主イエスは私自身なのである。「私はキリストとともに十字架につけられました」ガラテヤ2・20)これが、私達のうちに「キリストが形造られる」と、言う事なのである。神の啓示の光りが兄姉にあるよう祈る。

†  赦さない苦しみ。
 小説の神様と言われる、志賀直哉の代表作「暗夜行路」では、主人公の謙作は、妻の直子の不義の罪を赦す。一年ほど経って、直子は開き直って言う。「あなたは私を愛していると仰(オシヤ)って、実はどうしても赦せずにいらっしゃるんだろうと私おもいますわ」 赦されない苦しさと辛さを訴える。謙作は「私は考えで寛大だが、感情では寛大ではない」と妻の言い分を認める。即ち、理性では赦せても、本音では赦せないで、妻を針のむしろに、座らせたままにしているのである。謙作は、赦せない矛楯した自分自身に苦しむ。この小説は、朝の光を迎えない「暗夜行路」なのである。人間の最大の課題は「人の罪を赦す」ことである。まことに神を知り、自分自身の罪を知り、キリストの赦しを真実に受け容れた者でしか赦せない。それで、苦しみを背負って生きてしまうのである。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」 マタイ6・14) ハレルヤ!

「苦しみの意味」(5)