「苦しみの意味」(6)

† 同朋への苦しみ。
 私は、周りに多くの知人を持つ。教会の中では、同信の友ばかりであるが、ほとんどの知人は、信仰と距離を置く人ばかりである。私達の持つ聖書の論理性を拒否することではない。理路整然としてわかりやすいと感じている。人間についても、罪人である事に異議を唱えるわけでもない。十字架の現実的な理由について反撥して、敵対しているわけでもない。教会のイベントの招きにも応じて参加し、メッセージにも耳を傾ける。だからといって、信じるわけでも無い。このようなポーズを取る日本人が、ほとんどである。西洋においては、信仰に入るか、無神論者になるかの二者択一でしかない。自分も日本人でありながら、日本人に対して、苦しみを覚える。日本人は宗教には関心を持ち、大事だとも思う。しかし、自分は傍観者としてとどまる。日本人は「井戸端会議は大好き、だが、自分が肴(サカナ)にされるのは大嫌い」日本人は、評論大好き、しかし、評論はされたくない。日本人は「眺(ナガ)める」(逍遥(ショウヨウ)「気ままに過ごす」)事が大好きなのである。これを切り崩して行く事が、日本人の福音伝道だと思われる。 

                 
† 曖昧な信仰は苦しみとなる。
 多くの人は「アブラハム」を羨(ウラヤ)む。なぜなら、神に選ばれ、御声を掛けられて、壮大な未来を約束された。(創世記12・1-3)確かに、4000年の歴史を振り返れば、神の仰せられたことは、現実となっている事に驚く。現代の私達にも、共通していることがある。そして、とても重要な事である。それは、神が、アブラハムに語りかけられたと言うことは、その事実のゆえに、もはや、アブラハムは自分自身の生涯を生きる事が出来ない。神は愛を持って、アブラハムと結びつかれ、アブラハムも神に結びつけられたからである。神が語りかけられた、その瞬間より、アブラハムの生涯は神のための生涯に必然的になった。現代の私達も、神の御声を聞いて、神の御心を知るならば、この生涯は神のためにあると言うことなのだ。それがあなたへの神の愛である「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」1コリント6・12)神のために生きる、という実際のない信仰や、その教会は、大きな刷新を必要としている。

「苦しみの意味」(6)