「信仰の検証」(1)
† 自らの信仰を知る。
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ロマ12・2)この度、伝道生活66周年を迎えられた90才の有賀喜一先生の祝賀激励会に参加した。日本全国から340名の牧師と信徒が集った。率直に、神の栄光のためにのみ仕え、教会を励まし、力づけ、健全な信仰(神学)を植え付けられた神の人と言う事である。教会に、信徒間に分裂を起こしたという噂も聞かない。今も、90才とは思えないバイタリティに溢れて居られる。「これからの10年は葛飾北斎の晩年のように、福音宣教に狂った人として生きる」と宣言された。神の栄光のために真っすぐの人、まさにパウロのようである。大阪会場まで、一日8回の乗り換えをしての日帰りだったが、疲れもなかったのは、有賀先生の信仰、その霊性に刷新されたからである。有賀先生を模範として、受け止められた。信仰は、人間の自由意志において成り立つ。私達は自由意志によって、神のものとなり、福音の内容を行い、生活することを選んだのだ。常に心の一心によって、自分に生きる信仰ではなく、神に生きる信仰を選び取るのである。
† 検証で正常になる。
世界一を誇る、日本の自動車メーカーが、認証不正を行い、一挙に信用を失墜した。言うまでもなく「不検証」の黙認である。私達は救いを受けていると自認している者だ。しかし、その信仰の内容は検証を必要としている。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい・・・・」2コリ13・5)なぜならば、私達は神の前に生きないで、自分を生きてしまう。即ち、検証することのない信仰を正常化してしまう傾向があるのだ。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」ヘブル4・13)吟味され、検証されない信仰や霊性は、神の目に「さらけ出されてしまう」果たして、主キリストは、認証されるのか? 今、信仰生活をしているならば、正しい検証をして、正常を確認したい。